液体パパ

3人子育て中の個人タクシードライバーがわりと変な記事を公開します。



幼稚園の門の前で一歩も動かない次男の話

次男は今年度から幼稚園の年中になったんだけど、いやまぁ年少時代は中々なもので。


彼は入園してからというもの、毎朝の登園で門の前から石像みたく一歩も動かなくなる抗議をずっと行っていた。
ストライキ。

たまたま来た同じ教室の子や年長さん、或いは先生に手を繋いでもらえばどうにか一緒に教室までは行くのだけど、それでなければ頑なに石化していた。

門は実親でさえも弾く結界なもんで、そこから先は見ている事しか出来ない。
一歩も動かない様子を見ている事しか出来ない。

最初は不安による抗議行動で号泣も挟んでいたんだけど、夏休みも過ぎお友達も出来た頃にも頑なに繰り返していたので、途中からは儀式のようになった。
何故なら時折笑みをこぼしながらやっていたからだ。

彼の中で教室まで一人で歩いたらそれは負けを認める事になる。
この幼稚園という訳わかんない空間にぶち込まれた事を認める事になる。

分かるぞ。
僕だって同じ気持ちだ。

「生きるとはそういうもの」

目の前のその言葉がゲートになっている。
しかし通行手形が見当たらないから立ち尽くす。
分かるぞ。

しかし困った事になった。

先生の手をわずらわす懸念もある。
ただそれはまだ良い。
良くはないが、門から教室までの30秒程の時間ロスは先生にとって大した負担ではない事は見ていれば分かる。

問題は、年長になった際に行われる伝統で、新しく入ってくる不慣れな年少さんの手をつなぎ教室までエスコートする期間がある事だ。

自分で自分の教室に行けないのに、年長になったら年少さんの手を繋ぎ、年少さんの教室に行った後に自分の教室に行く必要がある。

自分で納得していないのに、新入りのエスコートなんて出来るのかい?

いやむしろ、このままでは逆に年少さんにエスコートして貰う事になりかねない。

そう思っていた年少の後期。
彼はいつものようにうつむき立ち止まった後に、急に教室までダッシュするようになった。
前触れもなく急に。

先生からは歓喜の声。

かくして彼の意地はきっかけも無く溶解した。
「そういうもの」に追いつかれないよう、照れ隠しのダッシュで駆けて行くのだ。